苦学力行歯科医術の向上に貢献した人

飯塚淳一郎 物語





明治時代渡米し、苦労して歯科医術を学び、歯科医となり、帰国後、大阪歯科大学教授、学長となり、日本の歯科医術の向上に貢献した。


飯塚淳一郎 略歴

■一、まえがき

みなべ町東吉田から八丁たんぼのまん中をまっすぐにのびた道路が、晩稲常楽の丘につきあたり、大谷の方にカーブしたところに、大きな木の枝に守られるように立派な石碑が立っています。

これが、明治三十九年、十八歳のときに一人でアメリカに渡り、働きながら勉強して、立派な歯医者さんになって、のちに大阪歯科大学の学長にまでなった、飯塚淳一郎(旧名、坂本傳右衛門)先生をたたえる碑なのです。
■二、少年時代

飯塚淳一郎さんは、もとの名を傳右衛門(でんえもん)といって、明治二十年十月十五日、晩稲村(今のみなべ町晩稲)の坂本為蔵(ためぞう)・ウ免(うめ)さんの三男として生まれました。
五人兄弟の末っ子で、小さいころから何事にも興味を持ち、とことん調べてみないと気のすまない性格でした。

お父さんの為蔵さんは、この子の性格を見抜き、将来を考えてか、よく、お寺参りや、お宮参り、村芝居の見物などに連れていきました。
そして、どんな忙しいときでも、淳一郎さんが読書しているときなどは、家の仕事を手伝えなどとは一度も言わなかったそうです。

そういう中で、ほかの子供たちのように遊びまわるよりは、家の中で本を読んだり、お寺の和尚さんから字を習ったりする方が好きな少年に育っていきました。
■三、父の戒め

お父さんの為蔵さんは、大変正直者で、きちょうめんな人柄でしたから、みんなに信用され、区や村の役を務めていました。

ある年、家族で鹿島さんのお祭りに行ったときのことです。
砂浜に引き上げてある舟の間を遊びまわっていた淳一郎さんが、落ちていた財布を拾ってお父さんのところへ持っていくと、にこにことお弁当を食べていたお父さんは急にきびしい顔になって、「どうして他人のものなど拾うのか。もとのところへ置いてこい。」ときつくしかって、「他人のものに手をかけるような浅ましい心の人間になるなよ。」とさとされました。

また、あるとき、紙を買うと言ってもらった五銭で、つい、おもちゃのピストルを買ってしまったことがわかり、「うそを言った。」ときびしくしかられました。
このように、子どもたちにも、かわいがるばかりでなく、しなければならないこと、してはいけないことをきびしく教えるお父さんでもありました。

    ※注 五銭=一銭は一円の百分の一、当時(明治二十年ごろ)では米一升が約五銭だった。
■四、田辺中学校へかよう

晩稲小学校、上南部高等小学校を卒業した淳一郎さんは、明治三十四年四月から田辺中学校へ進学しました。そのころ、村から中学校へ行く人はほとんどなく、その年も、友達と二人だけでした。
淳一郎さんたちは、朝五時に起きて提灯の明かりでハヤ坂をこえて田辺の扇が浜の学校まで8キロあまり道を歩いて通学しました。でも、一年間で遅刻したことは一度もありませんでした。

学校では、初めて習う英語の授業に苦労したそうです。家に帰って予習しようにもまわりに教えてくれる人もなく、参考書もなかった上に、通学に時間がかかって予習復習の時間もなかったからです。
ですから、田辺中学校での生活はそんなに楽しくなかったようです。

そのころ、一番上の兄さんが大阪へ出て商売を始めていて、その手伝いを頼まれていたのと、大阪へ行けば夜英語が習えるところがあると聞いて、二年生の夏、思い切って田辺中学校を退学し、大阪に出て、兄さんの店を手伝いながら、夜学で勉強を始めました。

夜学で習う英語はよくわかり、だんだんおもしろくなってきました。しかし、兄さんの商売がうまく行かず、一年足らずで店を閉めなければならなくなりました。
兄さんは、この失敗を取り戻そうとアメリカに行ってしまいました。

     ※注 田辺中学校=その当時は「県立第二中学校」といった。いまの田辺高等学校。
■五、読書にふける

家に帰った淳一郎さんは、ちょうど、いま石碑が立っている所にあった店の番をしながら、英語の本や、日本の古典や哲学の本など、いろんな本を手あたり次第に読みふけりました。
また、光明寺の和尚さんのお話を聞いたり、道林寺の和尚さんに漢詩の作り方を教えてもらったりもしました。

でも、晩稲のほとんどの家の仕事は農業です。農繁期にも百姓の仕事を手伝わないで本ばかり読んでいる淳一郎さんをみて、村の人たちは、「ええ若いもんが、本ばっかり読んで、ぶらぶらして、一体何になるつもりやろう」と、かげ口をしたそうです。

でも、淳一郎さんは、「自分は三男でもあるし、もともと、百姓には向いていない。今、何になるというはっきりした目当てはないが、百姓をやらん以上は勉強する以外に方法はない。」と考えていました
■六、チャレンジャー号事件

明治三十八年十一月のある日、用事で南部(みなべ)に出た淳一郎さんは、海岸の松の木の根元に腰をおろして休憩していました。

浜には人影はありません。ただ一人なんとなく海を眺めていますと、見なれない大きな機帆船が南部湾に入ってくるではありませんか。
「おかしいなあ。」とつぶやきながら、立ち上がって波打ち際まで行って見ていると、ボートがおろされて、二人の白人が乗り、一人の黒人がオールを漕いで浜の方へやってきます。

陸に上がった二人の白人は、淳一郎さんのいるのを見つけて、何か訴えるように話しかけてくるのですが、何が何やらさっぱりわかりません。
少しずつ後退りする淳一郎さんに、白人たちはなおも話しかけながら町の方についてきます。

そのころになって、町からも船を見つけて大勢の人が集まってきました。
■七、英語で筆談する

警察署からも巡査が駆けつけてきました。
ちょうど、駆けつけた小橋という巡査部長は淳一郎さんを以前から知っていて、「何を言っているのかわからんか。」と聞かれました。

集まった人の中にも英語の分かる人はいません。大さわぎになった中で、淳一郎さんがふと思いついて、「何を言っているかさっぱり分からんけれど、筆談ならできるかも知れないのでやってみましょうか。」と小橋巡査部長の手帳と鉛筆を借りて、「何の用で来たか?」と書いて見せると、二人の白人は、それこそ「地獄で仏に会ったような」喜びいっぱいの顔つきになり、手帳へ「船で火事が起きたから、電報を打ちたい。」と書きました。

そこで、二人を北道の郵便局へ案内し、二人の書いた英文を和文に訳して電報を打ってあげました。
船は、アメリカ船でチャレンジャー号といい、電報のあて先は神戸のサムエル商会でした。
■八、英語の力のなさを痛感する

二人の白人は、やっと目的を果たすことができて大喜びで、淳一郎さんの手を握って、「サンキュー、サンキュー。」をくりかえし、お礼だと言って銀のシガレットケースをくれました。

その後、船の火事はなかなか消えず、海水をいれたりしていましたが十二月になってあらしが来てこっぱみじんにこわれてしまい、四、五十人の船員は一時、南部(みなべ)の旅館などに泊まっていました。
その時にも、淳一郎さんは船員たちと話を試みましたが、やはり通じなかったそうです。

このことがあってから、淳一郎さんは、ますます、自分の英語の力のなさを痛感するようになったのでした。
■九、アメリカへ

この事件があってから、淳一郎さんは、どうしても本場のアメリカで英語を習いたいと思うようになりました。
何事も思い立ったら実行に移す淳一郎さんです。

年をとったお父さんの反対を、「五年たったら帰ってくるから」と納得させて、明治三十九(一九〇八)年三月十八日、麦が青々とのび、ヒバリがさえずるのどかな故郷をあとに、勇んでアメリカへの旅に出ました。

南部(みなべ)の浜から船で大阪へ、そこで、お父さんが工面してくれた費用四百円のうちから、洋服を作り、靴、山高帽子、ステッキまでそろえたそうです。
■十、キーモン号で神戸を出発

三月三十一日、アメリカ行きのキーモン号で神戸を出港しました。

ちょうど、日露戦争が終わったときで、神戸の港は帰ってきた兵士でごったがえしていたときでした。
キーモン号は、貨物船を改造したお粗末なもので、五十人ほどの乗客は大変不便な思いをしたそうです。
■十一、兄との再会

四月二十日、ヴィクトリア港についた淳一郎さんは、行こうと決めていたサンフランシスコが昨日大地震のため大きな被害にあっていると聞いて、とりあえず、何も連絡しないできた兄さんに会おうとハンフォードへ行き、久しぶりの再会をしました。
■十二、しばらく農園で働く

そして、しばらく兄さんの働く農園で一緒に働きました。

そのころ、アメリカへは日本からおおぜいの人が働きに来ており、お金を稼いでは日本の家族へ送っていました。
仕事は、主に農園での作物の世話、消毒、収獲、木を切りたおして開墾、鉄道つくり、製材などでした。

兄さんも、カリフォルニアの農園で働いていたのでした。仕事もきつかったかわり、農繁期などは賃金はよく、その夏は兄さんと働いて、五百ドルをお父さんに送ったそうです。
■十三、働きながら英語を学ぶ

しかし、アメリカに渡ってきた目的は、本場で英語を習うことです。

十月になると、兄さんと別れて町の教会に泊めてもらい、昼間は店につとめて働き、夜は教会の夜学で勉強することになりました。
そのころアメリカには日本人のための教会があり、熱心なクリスチャンの婦人たちがボランティアで英語を教えてくれていました。
農繁期になると、また、兄さんと同じ農園で働いて学資をつくり、家への送金の手助けもしました。

こういう努力を続けているうちに、苦手だった英語もどんどん上達し、アメリカにきて三年になるころには日本から来る労働者と農園主との仲介をしたり、教会での先生の話を通訳したりするまでになりました。
■十四、父の教えを実行する

ある朝のことです。勤め先の店で掃除をしていると、五ドル金貨が落ちていました。
そのとき、とっさに、あの少年のとき、鹿島の浜で父にさとされたことが思い浮かびました。
「他人のものを拾うようなさもしい心になるな。」

淳一郎さんは紙屑などといっしょに金貨をはきとばしました。と、そこへ出勤してきた主人が足もとに転がってきた金貨を拾いあげて、「これはお金ではないか。どうして拾わないか。」というので、「これは私のものではない。他人の物を拾うことは好まない。」といいますと、主人は笑いながら、「わかった。でも、これからは拾っておいてくれよ。」といいました。

それから、主人はいっそう淳一郎さんを信用してくれるようになりました。
■十五、歯医者になろう

アメリカに来て、四年が過ぎた正月です。
「第一の目的、英語は大体話せるようになった。次は大学へ入って職業を身に付けよう。」と決心した淳一郎さんは、兄さんと別れて、ロサンゼルスへ出て、住み込みで働きながら大学へ入る勉強を始めました。

アメリカの新学期は九月からです。淳一郎さんは、朝と夕方働き、昼はハイスクール、夜はおそくまで予習、復習とがんばりました。
ハイスクールに通ったり教会で手伝ったりする生活の中で、多くの人たちと知り合い、教えを受けました。後々の淳一郎さんの生き方に大きな影響を与えた人たちもたくさんいます。

そのなかに、クーパーという歯医者さんがいて、「どうだ、歯医者にならんか。一度、わたしの医院を見に来なさい。」といいます。
淳一郎さんは歯医者という職業があるのを知らなかったのです。それほど自分の歯は丈夫だったし、明治の南部(みなべ)地方には歯医者が少なかったのでしょう。
クーパー先生の医院を見せてもらううちに、この仕事をやってみようと思い、歯科大学に入ろうと決めました。

兄さんも、いよいよ帰国することになりました。淳一郎さんの決心を聞いて、「がんばれよ。」と学費に二百ドルくれましたが、歯科大学はずいぶん費用がかかります。学費を貯えるためにハイスクールをやめて働き、独学で検定を受けることにしたのです。

淳一郎さん二十四歳。またまた、大きな目的にチャレンジすることになったのです。
日本では、明治が終わり、大正に変わった年でした。
■十六、学費がなくなる

努力の甲斐があって、大正三(一九一四)年五月、カリフォルニア州の大学入学検定に見事合格。南カリフォルニア大学歯科学部に入学することになりました。

それからは、初めて習う歯科の勉強にうちこむ毎日が始まりました。
しかし、貯えていた、学費もどんどん少なくなり、二年生の正月元旦の朝でも何も食べないでねているところを友達に助けてもらう有様でした。

やっとのことで二年を修了し、夏休みには兄さんと働いたハンフォードの農園へ働きに行きました。
そのような苦しい中でがんばった三年生、実習の単位が足りなくて卒業できなくなったので思い切ってデンバー大学に転学しました。

そして、翌年五月には、念願の卒業証書を手にすることができました。
つづいて、コロラド州の試験にも合格して、十月には、デンバー市内で歯科医院を開業しました。
それは、第一次世界大戦の終わった年でした。
■十七、帰郷

医院の経営にも見通しがついたので、その前の年、光明寺の和尚さんの世話で婚約していた南部町(現みなべ町)の飯塚貞さんと結婚するために、一度日本へ帰ることにしました。

しかし、第1次世界大戦が終わり、景気がよくなって乗客が増えたために、日本行きの船がとれず、申し込んでから一年も待たされました。

大正九年三月八日、サンフランシスコからサイベリア号が出港します。
一等船室にはいった淳一郎さんはどんな気持ちだったでしょう。来たときの汚い貨物船とくらべて、ほんとうに、身も心も晴れ晴れしていたことでしょう。
■十八、故郷へ錦を飾る

十四年目になつかしい故郷上南部村晩稲(現みなべ町晩稲)へ帰ったのでした。

我が家の玄関に立った淳一郎さんを迎えたお父さんは七十八歳。
「おそくなりました。」「やっと帰ってきたか。」
二人は、土間でひしと抱き合って無事を喜んだことでした。
■十九、歯科大学の先生になる

その年の四月、南部町の飯塚巻太さんの養子となり、長女貞さんと結婚、名前も坂本傳右衛門から飯塚淳一郎と改め、新しい生活に入りました。

再び、アメリカへ行って開業する準備をしている大正十年三月、養父の急死で行けなくなり、大阪で開業することになりました。
そのうち、アメリカで勉強してきた実力を認められて、大阪歯科医学専門学校の教授に迎えられました。
■二十、学長に就任

以来、教授を続け、昭和十六年に校長に選ばれます。

学校で熱心に教えるばかりでなく、自分の教養を積むことも怠らず、少年時代に手ほどきをうけた漢詩を高名な先生について勉強するなど、相変わらずの向学心で努力されるのでした。
そして、昭和二十四年、新しい制度によって学校が「大阪歯科大学」となると「学長」になられました。
■二十一、英語が役に立つ

この頃の話です。
当時の日本は、まだ占領されており、新しい大学にするか、しないかも、みんな占領軍の考え一つで決まるときでした。

「大阪歯科医学専門学校も、どうやら廃校にされるらしい。」と聞いた飯塚淳一郎校長先生は、占領軍の最高司令官に会い、得意の英語で、今の日本には歯医者を育てる学校の必要なこと。
アメリカにくらべてどんなに技術が遅れているか、等を熱心に説明して「大阪歯科大学」として残してくれるように直々にたのんだのでした。

「このことがあったから、大阪歯科大学は残されたのだ。そのときの先生の意気込みは、司令官を動かすほどすごかった。」と言い伝えられています。
その後、理事長、名誉教授と昭和四十二年に亡くなられるまで大学のために尽くされたのでした。
■二十二、おわりに

飯塚淳一郎先生は、英語や歯科医としての力だけでなく広い教養を備えられていました。

とくに、漢詩をよく作られ、毛筆が上手でした。
頼まれると、自分の詩を、自分の筆で、気軽に書いてくださるのでした。

そうした先生の作品は、光明寺をはじめ、旧村内にもたくさん残されています。

最後に使われている絵に書かれている漢詩は、みなべ町晩稲にある光明寺の襖に実際に書かれているものです。
漢詩と訳はこちらでどうぞ。


◆この物語は、和歌山県の南部川村(現みなべ町)教育委員会企画・製作により作られた
「苦学力行の人 飯塚淳一郎先生」山崎進/作・文  畑崎龍定/絵  をそのまま利用しています。
 なお、山崎進氏の本文は、先生の遺稿「思い出の記」をもとにした畑崎一太郎氏の原作をもとにしています。



戻る